ものをつくる人間として何かをつくって世に問う時には、作り手側の意図や想いが少なからずモノに宿ると思います。
そのとき最も重要だと思うのが作り手の美意識です。
でも美意識とひと言でいってもわかりにくい。
そこで、美意識「美しいとは何か、おいしいとは何か?」について紐解いていこうと思います。
前もって伝えておくと、私たち自身の「作り手の意図や想い」を紐解くものではない、です。
その前の段階として、「美しいってどういうこと?」「おいしいってどういうこと?」を考えたもの。
「美意識」というと、芸術や絵画などを思い浮かべるかもしれないが、美の感覚は人の判断の土台となるもの。
自然にも、人にも、倫理にも、生き様にも。人が判断しようとするとき、「美意識」はフ〜ッと立ちあらわれ、そして決める。
その判断は「正しさ」や「善行」に関係しているかもしれないし、「調和」や「理想」に関係しているかもしれない。
人には美を善、真を結びつける特性があるようです。
そんなに大きな概念でなくとも、美の体験には、それらの概念を発火させるような感動や情動を発動させる力があります。
下の図は、私が「美」というと思い浮かべるワードをマップにしてみたものです。
左に「美的なもの」、右に「芸術的なもの」。下に「感覚・身体的なもの」、上に「論理・社会的なもの」。
こうしてみると、美には「左=瞬間的に感覚が発動するもの」と「右=複雑なコンテクストを要するもの」があるように思います。
つまり、美は、芸術といわれるものほど、文化的なコンテクストを必要とする。
例えば「これはこうだから、美しい」みたいなやりとりを必要とするようになります。
フランス料理店でエスカルゴ・ブルギニョオン(カタツムリの料理)を食べて不味いと思ったことはありませんか?
歌舞伎の演目、義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)を見ながら「????」となって、わけもわからず拍手して終わったことはありませんか?
それは、フランス料理や歌舞伎に対してコンテクストや知識、経験が無いためだ、と言えるかもしれません。
パブリックスピーカー・経営コンサルタントの山口周さんは、こう言います。
「論理で白黒つかない問題について意思決定しようとすると、自分の感性に頼るしかない。位相はふたつあって、ビジネスを時間軸で見たときに、ますます論理が通用しなっていくという時間軸の変化の話。もうひとつは、会社の中でポジションが上がっていけばいくほど、論理で白黒つかない問題を扱うという話がある。
「あなたは、一体どうしたいのですか?」と、そろそろ問いそのものを変えなければならない時期に来ているのだと思います。
倫理の問題にせよ、創造性の問題にせよ、元をただしてみれば、ある種のみっともなさに対する自覚というか、「美意識」が欠けているのではないかと。」
上の図(美意識マトリックス)には、矢印をつけています。
美意識の出発点、つまり極めて主観的で個人的な「美」から出発する。
そして、またそれがやまびこのように自分に返ってきて、自分のこころの中に美意識が木霊してアップデートされてゆく。ということだと解釈しました。
それは、
- 1.観念化
自分のこころの中に、ある美意識に対する考えがフ〜ッと立ちあらわれる。
このとき、イメージしたり、言語化したり、できるものではない。
- 2.倫理化・創造化
一個人の美意識が形式化されて、他者へ伝えるものになる。
それが例えば信仰のようなものになったり、創造されたモノになったりする。
- 3.文化
文化とは、ラテン語 colere(耕す)から派生したドイツ語の Kultur や英語の culture は、本来「耕す」、「培養する」、「洗練したものにする」、「教化する」といった意味合いを持つ]。
つまり、人類の理想を実現して行く、精神の活動になってゆく。
「おいしい」を考える
普段、美しいって思うことって、ありますよね。何気ない食卓にでも「これ、おいしい!」と叫びたくなることもあります。
例えば、桜の花が散るのを見て美しいとか、美人顔は平均顔だとか、荘厳なお寺に美を感じたり。
いろいろな美の感じ方(美意識)があると思います。
「おいしい」にも、「美食」という言葉があるように「美」と「うまい」の意識も共通項がある。
さて、「おいしい」ってどういうこと?
これを少し掘り下げて考えてみることにします。
写真: 横田裕市 / Yuichi Yokota
1.そもそも、なぜに生き物は食べるのか?
―生存するために食べる。甘いものは栄養だ。(人間)
アリストテレスが紀元前350年、On Sense and the Sensibleの中で「すべての生き物は甘さから栄養を得る」と述べているように、「甘さ」が栄養の源であることは古くからよく知られていました。実際に、生物は砂糖に含まれるブドウ糖をエネルギー源として利用しており、生存のためにブドウ糖など糖類を含む食べ物を、「甘い」「おいしい」と感じることで進んで摂取するように進化してきました。
―菌類も味覚があって、考えずに食べる。(菌)
例えば、生き物の極小単位である菌類にも味覚がある、という研究者がいる。
といっても、人と同じ意味での味覚ではない。粘菌は、さまざまな化学物質に明確に反応するという。
「粘菌には、市販のオートミールを餌として与えています。オートミールはオート麦(燕麦)を加工したものなので、要するに穀物です。ただ、オートミールのなかでも粘菌なりに好みがあります。好んで食べるのは、化学肥料や農薬を使わない有機栽培のもの。また、納豆や茸のシメジは好みますが、醤油やマラリアの特効薬のキニーネを嫌います。醤油を嫌うのは、中に含まれている塩化ナトリウムが一つの理由と考えられます」
粘菌は複雑な状況のなかで、生存のために最適な行動をすることができる。脳を持たない粘菌が合理的に振る舞う。
北海道大学 電子科学研究所
中垣 俊之 教授
―味覚の根源――「憶」の意味
発生学者の三木茂夫さんがこういうことを言っている。
「玄米の味。それは明らかに一つの味であった。しかしその味は、ふつう食べ物を口にしたときに私たちの期待する「うまい・まずい」というそれでは決してない。いってみれば「うまくもなく、まずくもない。なるほど、こういう味か」というものだ。しかしそれは、食事のたびごとに、じっくり咀嚼を続けていくうちに、いつしか、えもいえぬ味わいをもたらし、やがて、この味への足がかりが一つできてくると、あとは年とともに一歩一歩その味わいを深めていく。しかし考えてみれば、私たちの遠い祖先が、稲作の農耕を始めた縄文のむかしから、それも毎日毎日、欠かすことなく噛みしめ、そして味わい続けてきたものだ。」
〜椰子の味。母乳の味も同じ。
「私たちは、満腹感・空腹感をひき起こす胃袋の拡張・収縮は、生理学的に血中の糖分の消長で左右されるというのだが、人々が一日の大半を胃袋の存在を忘れて生活している。じつは一日の大半をほとんど無意識のちにこの状態で過ごしている。
人々が一日の大半を胃袋の存在を忘れて生活できるのは、血糖の<042<平衡状態を保障す拮抗的な内分泌系のはたらきに負うところが大きい。消化吸収が盛んになって血糖値が上がると、同じ消化管に由来する内分泌系が作動して、これを下げる。一方、刺激興奮が活発になって血糖が下がると、これにたずさわる感覚–運動系と近縁の内分泌系が目ざめて、これを補う。前者は膵臓から出たホルモンであるとすれば、後者は副腎の髄質と皮質から二段階に出たそれである。体液性調節である。」
つまり、内蔵の働きは、自分のあずかりしらないところで調節をしてくれていて、太古のむかしから生命が記憶している「生命記憶」があって、それが味覚の根源ということ。
「記憶」とは「憶を記す」ではあるが、この「憶」は「啻=言中也」であって、いわば、寒くもない暑くない、あるいは空腹でも満腹でもない、そういった過不足ない状態を象るものといわれる。それが生命に記憶されているんだとか。
―生き物はチューブ。 チューブ(腸)=「食べる」が生き物の根源
哺乳類の進化の根源をたどっていくと、1 本の腸管に行き着く。原始的 な無顎類といわれる魚類は、腸で呼吸をして、腸で消化吸収をしている。 動物の体は内臓系、植物性器官と、体壁系、動物性器官からなっています。
脳がない動物はいっぱいても、腸がない動物はいない。あるいは、心臓がない動物 はいっぱいても、腸がない動物はいない。だから、動物の定義は腸であるといえる。
つまり、「腸(チューブ)」=「食べる」が生き物の根源なのです。
生き物は他の生命を食べ物として取り込む。そのことによって生命を維持できるし、それこそが生きているということであって、食べるということである。そしてそのために「おいしい」と感じるし、お腹も空く。
2.何をどうやっておいしいと感じるのか?(サイエンス)
では、科学的にみて、体内で何がおこっているのか?このあたりは、さまざまな書籍や一般化された情報があるので、軽くまとめておきます。
―甘味はエネルギー源、うま味はタンパク質のシグナル(栄養学)
汗をかいたときにしょっぱいものが食べたくなったり、疲れたときに甘いものを食べたくなったり、味覚は私たちに必要な栄養素のシグナルとしての役割を担っています。
甘味はエネルギー源、塩味はミネラルバランスと密接な関係がありますが、うま味はタンパク質のシグナルと言われています。
私たちの筋肉や内蔵、体内の酸素やホルモンは、タンパク質の消化によりできたアミノ酸から作られます。タンパク質自体には味はありませんが、タンパク質を含む食品には、遊離のグルタミン酸をはじめ様々なアミノ酸が豊富に含まれています。
舌で受け取ったうま味情報が脳に伝わることで、私たちの体内では、タンパク質を消化するための準備、即ち唾液、胃液、膵液などの分泌が始まります。うま味は、タンパク質消化を促す大事なシグナルの役割をしているのです。
―『甘い→おいしい』ではなく『おいしい→甘い』(心理学・脳科学)
私たちは、おいしさを理屈で考えてしまいがちですが、脳では五味より先においしいを感じている。
「おいしい」は、論理的な思考ではなく無意識のもので、言葉でとらえることができないもの。
心理学では、好きか嫌いかに理屈はないといわれており、『おいしい』もそれと同じで、説明できない感情です。
―でも、味覚(舌)より、風味(鼻)が大切(生理学・脳科学)
口の中で食べ物をかむと、食べ物からさまざまな香り成分が大量に立ち上り、それが一旦喉の入り口付近にたまる。そして、鼻から息を吐く瞬間、空気の流れに乗った大量の香り成分が、喉から鼻の内部へと一気に流れ込む。
すると、本来は鼻の穴から吸い込んだ匂いを感知するために発達した嗅覚が、「口の中にある食べ物の香り成分を強烈に感じる」
しかも、味を感じる舌の味覚センサーはおよそ100万個なのに対して、嗅覚センサーはその10倍のおよそ1,000万個。舌で感じる味の情報より桁違いに多い「香り成分の情報」が、脳の「情報司令部」に押し寄せる。その結果、人類は「味よりも食べているものの香り=“風味”をおいしさと強く結びつけて記憶する」ようになった。
ーNHKスペシャル「人類の果てなき欲望!?人はなぜ“おいしさ”なしに生きられないのか?」より
3.なんのために「美しい」「おいしい」と感じるのか?
極論ですが、「美しい」「おいしい」と感じるのはなにか理由があるはずです。(そう思うのは人間だけかもしれませんが)
それを今ある仮説を並べてみようと思います。どこかで聞いた話もあれば、初耳の仮説もあるはず。
みなさんも、少し考えてみてください。「あなたは、なんのために「おいしい」と感じるの?」
―死から遠ざかるため
太古の昔は、おいしさってもっと単純なものだったはずです。
どうして、ここまで変わったのか。
それは、食材の流通だったり、料理法の発達だったり、さまざまな理由が考えられますが、その根っこにあるのは、
「より効率良く体に吸収しやすく、エネルギーに変わりやすいものを食べれるようにする」ということ。
人を含む動物が最も恐れているものは「死」です。
死に直結する「飢餓」から逃れるために、栄養価の高いものを自分の手元におき、生活する。
本能的には、体に吸収しやすく、エネルギーに変わりやすいものを「おいしい」と感じるようになった、というのが、おいしさの根っこにあるもの。
何を食べてもまずいとか、食べる事がつらいとか感じていたら、死んでしまいますからね。
その本能的においしいと感じるものの王者が「脂質・糖質・タンパク質」です。少量で大量のエネルギーを生むからです。カロリーが高いものをおいしいと思うのは、これが理由です。栄養を語る上で中心になる5大栄養素は、これに「ビタミン・ミネラル」が加わります。
―「生の存在」を生むため
「美しい」と感じる心は、異性を「美しい」と感じる心から進化したのかもしれません。
なぜなら「美しい」ものには魅力があり、惹きつける引力がある。
惹きつけることができると、その人、そのモノと関係を持ちやすくなります。恋愛も、景色も、ビジネスもそうですよね。
「美しい」人に出会ったら、「ハッ!」とさせられます。 そして、その人のことをより知りたいと思います。
数学者は「美しい数式に魅せられる」、心安らぐ信仰も惹きつける引力がある。美しい場所に行きたくなる。
「美しい」は「生きること」に優れているということと言い換えることもできそうです。
魅力がある人・モノ・場所に人が集まり、活きる。そしてそれが「生きること」につながってゆく。
―ハッ!とさせられて、違いに気づき創造し、適応するため
アート思考という言葉があります。ビジネスの世界では、ロジカルシンキング、クリティカルシンキング、戦略思考、デザイン思考など、思考法が乱立しています。これは、どうやったら(HOW)、問題を解決できるかってみんな試行錯誤している結果。
そのなかにアート思考というものがあります。
アート思考とは、「アーティストが作品を生み出す時の考え方や思考プロセス」。
アーティストは「他者の価値観」ではなく、「自分の価値観」に基づいて試行錯誤を繰り返し、自分なりの答え、まだ誰も見たことがない未来を描き出します。そのため、この考え方や思考プロセスを、新しい社会やビジネスの創出に活用したいということで、多くのビジネスパーソンから注目を集めています。
そのアート思考が、最初の出発点にするのが、「自分の感情に気づく」こと。
「美しい」「おいしい」はその源泉になっているのだと思うわけです。
でも、創造すると人間にとって何が良いのか?何のために創造するのか?
これがわからないことだらけなのですが、「創造して理想を世に問う」という行為が人間だけが持つ世界への適応方法なんだと思います。
世界に問い、世界に適応し、世界を変える?のかなと。
―仲間を増やし、共に助け合って生きる(共感)
人類はかつて猿であった時代から、毎日食べつづけてきて、原子力を利用する現代までやってきました。その膨大な年月の間、人間の活動、労働の主力は、つねに、毎日の食べるものの獲得におかれてきた事実があります。
チンパンジーはまれにですが、人間と同様、家族以外の仲間とも食べ物を分かち合うことが研究によって確認されています。そのとき、脳から放出される「オキシトシン」というホルモンが放出されているのだそうです。オキシトシンは「愛情ホルモン」とも呼ばれ、通常は毛づくろいなど相手と触れあった時に出て、相手への愛情や信頼感を強める働きをしています。
ところが詳しく調べると、「毛づくろいしているとき」よりも、「仲間と食べ物を分かち合っているとき」の方が、およそ2.5倍も多くオキシトシンが出ていることがわかりました。「一人で食べるとき」に比べても、5倍の量に達しています。家族であるなしを問わず、食を分かち合うことが、集団の絆を強めるというとても有益な効果を生んでいたのです。
『「食を分かち合う」とは、仲間を増やせるだけでなく、共に助け合って生きていけるようになります。食を共にすることで絆を育むこの仕組みは、人類の繁栄にとって非常に重要なのです。』
ーNHKスペシャル「人類の果てなき欲望!?人はなぜ“おいしさ”なしに生きられないのか?」より
一方、人類の歩みのなかで、食べることは料理の発達が大きく関わります。
食べるものは、自然物です。料理とはこの自然物に何らかの人工的な加工することにほかなりません。この加工の様式は、「生のもの」「火にかけたもの」「腐敗させたもの」の3つ。太古のむかしは「生のもの」を食べていました。火を使うようになって焼いたり、煮たりするようになりましたね。そうすることで、より効率良く体に吸収しやすく、エネルギーに変わりやすいものを食べれるようになりました。
「腐敗させたもの」はとりわけ不思議な調理法。納豆や味噌や醤油、干物や保存食、そしてもちろんアルコールは、長期保存したりカビさせたりして一見すると食を食でなくさせる行為、毒にする行為であるかのようにみえます。でも、腐敗は発酵とむすびつき、実に絶妙な味覚となります。発酵がなければ、味わい深い料理は存在しないのです。
ある期間自然のなかに放置することによって、うま味をひき出すという自然と文化の接合点に「発酵文化」があります。
つまり、「火にかけたもの」「腐敗させたもの」をつくることによって、「安定してたくさん食べる事ができるようになる」。
そしてその食を「おいしい」だから「たくさん食べて」と分かち合い、仲間と一緒に生きていけるようにする。これは人類の生きるための戦略とも言えます。
ですから、安定して食べれるようにするための工夫である「発酵食」は人類の知恵がつまっていると言えます。
4.食べる、生きる、死ぬ
人類は、戦争のためよりも、宗教儀礼のためよりも、芸術や学術のためよりも、食べる物を生み出す農業のために流す汗が、全世界的にみればもっとも多かった。過去数千年間、「食べる」こそは人の努力の中心的存在でした。
生きものは他の生命を食べ物として取り込む。そのことによって生命を維持できるし、それこそが生きているということであって、食べるということ。そしてそのためにお腹も空くし、「おいしい」と感じる。
そうした物質の環境と生命との交換の流れが停止したとき、生命は死を迎えます。だから私たち人間という生命は、タンパク質を食べ続けなければならない。
ひとつの生命だけを考えれば上記が「食べる、生きる、死ぬ」です。言い換えれば「小さな宇宙」の話。
もうひとつの「食べる、生きる、死ぬ」があります。言い換えれば「大きな宇宙」。
<生命記憶>30億年もまえの“原初の生命体”の誕生した太古のむかしから、そのからだの中に次から次へ取り込まれ蓄えられながら蜿蜿(えんえん)と受け継がれてきたものがあります。
日本人には、日本人の生命記憶がある。しょっぱい味も、玄米の味も、椰子の味も、母乳の味も。無意識のうちに、引き継がれていくもの。
生物個体としては死ぬことがあっても、遺伝子は次から次へそれを受け継いでいくし、他の生き物を殺して食べて、他の生命がまた別の生命の血肉になる。
そういう意味で我々人間も、はるか昔の単細胞生物だったときから命をずーっと繋いでいるのです。
長い目で見れば、地球や宇宙の環境に必要だから、「生きるー死ぬ」を繰り返しているのかもしれないとも思います。
5.この先どういった「美意識」を持つべきか?
良い美意識をもっておくことが、良い文化をつくる。
これが結論なんだろうと思います。
何を良いとするのかは、「善行、真実、調和、理想」をみずから行動し、考え続けるしかありません。
美意識(美・芸術)とは、感動や情動を発動させる装置。例えるなら「おもちゃ箱」です。
自分の美意識の琴線にふれる経験がたくさんあるだけ、人生が豊かになる。
ですから、いろんなものを箱のなかに入れて、遊ぶ・発火させることが大切なのだろうと思います。
「食」というワールドに限らず、ざまざまな世の中に相対するときに、自分自身の目が俯瞰してみれること。地図が拡張されてゆくことに、もっと寛大で、アクティブな姿勢が大切だとも思います。
自分の目や舌が肥えていれば、あらゆる「美しさ」や「美味しさ」をおもしろがれるし、多様な方向性も見出せる。