反乱する◯◯思考
ここ10年くらい書店にいくと目に付く〇〇思考。
オブジェクト思考、ネットワーク思考、ロジカル思考、デザイン思考、アート思考、アナロジー思考、クリティカル思考、仮説思考などなど。
みなさんも一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。
例えば、ビジネスの現場では、事業コンセプトを考え、新しい何かを生み出しみんなの協力を得ようとするとき、「思考」を総動員して論理やアイデアを結びつけ言語化しなければなりません。
そういった思考力を身につけるには過酷な努力が必須と思われるかもしれないが、実は、「思考力」とは「努力の話」ではなく「方法論の話」なんです。そして思考力が「方法論」である以上、そこには再現性が存在します。つまり、一旦「思考法」や「考える手順」をつかんでしまえば「誰でも」「過酷な努力は必要なしに」マスターすることが可能。
大企業では◯◯-Wayと名付けた、自社独自のイノベーション方法論を作り上げているところがあります。そうすることで社員、組織の思考を統制しようとします。あるいは、理念や行動指針のような◯◯流な集団の型(道しるべ)として、形式化されているところもあるでしょう。
このようにビジネスシーンでは、使える方法論を求めて常に勉強している組織や個人がどれほど多いことか。
そう考えると、自分で考えることはコスパが悪いと逃げてしまって、「誰でも」マスターできる「型」を軽率に求め過ぎている時代なのかもしれません。
学校でも〇〇型
少し遡って考えると、学校教育の現場でも同じようなことが行われてきました。
語学からサイエンスまで知識を知恵に変換する様々な方法論を基礎から学ぶ期間が、学校。
How-toを学習することで、最短の経路で素早く答えにたどり着くことができるようになる。
でも、その弊害も広く知られるところで、昨今「概念型探究」とか「探究型学習」、「プロジェクト型学習」という言葉が認知度を高めていますね。
しかし、これらもまた現場では、これまでの学習と同様に何か与えられた「型」を身に着け、それを用いて探求・学習するものだという勘違いが起こっている。
抽象化された「概念(コンセプト)」をもとにプログラムを組み立てましょう、と言われているのに「型」を探すし、「型」を見つけてそれに当てはめて実践をし、それに行き詰まると「型」ごと放り投げてしまう、ということの繰り返し。
どうして私たちはこれだけ「型」というものに愛着を感じ、その活用を願うのでしょう。
なぜ、みんな型にハマりたくないといいつつ、根底では永遠に「型」を探してしまうのでしょう。そもそも「型」は悪なんでしょうか。
「型が与えてくれる良さ」というのもありますよね。
型は要するに、考えなくてもできるようになるってことです。つまりは自動化。
師から学んだ「型」を使いこなせるようになれば、師と同じようなものが作れるようになります。
型を熟達すれば、師と同じものがより素早く手に入れることができるようになるでしょう。
それはいいことでもある反面、新しいものを生み出す能力に欠ける。
意識的(形式)だったものが無意識的なもの(暗黙)になり、考えなくてもできるようになる。そうなると、考えなくなる人も出てくるでしょう。
人生の過程のなかで活躍すべき大人な時期に、考えなくてもできる自分になることはコスパが良いので、ある意味良いことかもしれません。
反面、型を崩して「自分のやる意味」を付け足していきたいと思うようになる人もいるかもしれません。
それは成長の次ステップなのでしょうか。苦難の道なのでしょうか。
登るべきかは、自分が決めなければなりません。
日本人の思考の癖。儒教の呪縛。
なぜ、みんな「型」を探してしまうのでしょう。
実は私たちの日常は儒教によって意味を持たされた言葉で溢れています。そして、これらの言葉を私たちはほぼ無意識に使っています。私たちは学校で特段に儒教を学んだ感覚はありませんが、言葉を通じて、儒教は案外私たちのなかに入っているのかもしれません。
儒教は一般に「修己治人(しゅうこちじん)」の教えといわれ、「己れ自身を修める」道徳説と「人を治める」民衆政治に政治説とを兼ねた教説が儒教です。
そして、四書五経のうちの一つ『大学』がそのことを最も端的に、しかも組織的、簡潔平明な文章で表現した書物であると言われます。
一般に儒教というと『論語』から入る人が多いと思うのですが、江戸時代の寺子屋や藩校では多くの子どもたちは6歳くらいから入学し、四書のうち『大学』から学び始めました。
『大学』の第一章(第二節)では「天下に明徳を明らかにしようとした人はまずその国をよく治めたし、その前に家(家庭)を整(斉)えたし、その前に身を修めた(修身)」とあります。
つまり、世界および国全体が良くなるには、いきなりそこにアプローチするのではなく、その前に家が整い、自分が整うことが前提であり、そのための「修身」である、ということ。
「修身」とは具体的にどういうことか、心を正しく、心の音を誠にせよ、知を致(致知)す必要があり、そのためには「物に格る」必要がある、という教えです。
また、儒教の教えに「五常」と「五倫」というものがあります。
人は、「仁・義・礼・智・信」からなる「五常」の徳目を守ることで、「五倫」と呼ばれる「父子・君臣・夫婦・長幼・朋友」の関係を維持するよう努めなければならないという内容で、倫理観の基本になっています。
江戸時代になると朱子学は官学とされ、初代将軍・徳川家康に仕えた林羅山をはじめとする林家の者が、教育政策を統括しました。
朱子学とは別に儒教から派生した「陽明学」も広く学ばれ、大塩平八郎や吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛らに影響を与えました。
つまり、儒教の教えは、為政者が理想の政治を実現するための思想哲学です。
そのように教育された民は、
「家が整い、自分が整うことを前提に、心を正しく、心の音を誠にするように努力します。」
「目上の人に経緯を払い、その関係を維持するように努力します。」
それが、日本人の心の底に張り付き、思考の癖になっているようです。
: 儒教の写真は朝日新聞デジタル「渋沢栄一、儒教の教えを近代に 利益と道徳の両立で社会をつくる」から引用させていただきました
守破離の「離」ってどういう状態?
日本にはかつて「守破離」という「型を破る」考え方がありました。
「守破離」とは、日本の茶道や武道などの芸道・芸術における師弟関係のあり方の一つであり、それらの修業における過程を示したものです。
千利休の訓を纏めた「利休道歌」「 規矩作法 守り尽くして破るとも 離るるとても本を忘るな」
を引用したものと言われています。
そもそも守破離の「破」とは規矩を破るのではなく、「規矩を守りつつ、固定概念を打破する」という意味です。
「破」は、つまり「うまくできたものの構造化。」うまくできたものを形式化、言語化できている状態なんだと思います。
観察によって部分に切り分けていけば、関係と構造を理解することができる。
構造が理解できれば、見えていない部分が想像できる。
視覚のみではなく、全身で観察して自分自身にフィードバックすることができる。
それを形式化、言語化して自分以外の人間とフィードバックループが作れる。
そんな状態であれば、定番なものを打破して高名な茶人や先人より先へ行くことができるかもしれない。
「いつでも自ら規矩を破れる状態」です。
では「離」は、どういう状態か?
「型」を考えることもなく、無意識に、あるがままに、自由に創意工夫できている状態なんだと思います。
これ、実は利休が一番戒めていたことです。
創意工夫がそこになければならず、不自由(規矩)の中で自由を謳歌すべきなのです。
守破離の離は「規矩の外に行くこと」です。
これは規矩を忘れろということではなく、規矩にないものを見つけて、自分で規矩を生み出すということ。
そのためには規矩を熟知している必要があります。
オリンピック陸上競技で活躍し、指導者として活動されている為末大さんが著書「のなかでこんなことを言っています。 」
熟達の道の最終段階。それが「空」である。
最終段階では、自我がなくなり、今までの前提が大きく変わる。制約から解き放たれ、技能が自然な形で表現される。体験によってしか知ることのできない未知の世界への到達。規矩を忘れられる状態というよりも、我をも忘れる。
自分自身が開放されて、我を忘れる。あるがままの自分になれる。(ゾーンに入るような感じ)フロー体験。
規矩さえも忘れ、自分さえも無くなる。まさに仏教哲学の「無我」です。
でも、ここが私には想像しづらい。本当の「離≒空」を体験していないのだと思います。
自分自身が開放されて、我を忘れる。あるがままの自分になれる、まさに「無我夢中」。
無我夢中という言葉は、
「無我」は仏教語で、自分に捕らわれる心を超越した心、そこから自分を忘れる意を表しています。
「夢中」は物事にすっかり熱中して、他のことを考えられない状態を表します。
幼少の時期でない限り、これを実践している大人は少ないように思います。
「遊んでいるように、規矩を生み出す」。そんな「離」に到達したいものです。