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私たちのルーツを探って、その時代のストーリーを編んでみた

2021.12.29
ある醸造元がはじまる風景 -FUJIYA NARRATIVE-

私たちのルーツ。それは困ったときに軸足を定めたり、向かうべき未来を想像したりするときに役立つもの。

自らのルーツを知っておくことはとても大切なこと。

ですが、困ったことに不二家のルーツが読み解ける書物が残っているわけではなく、どうしようかなと思っていました。

当時の筑後・久留米の記事を拾い集めるところから始まり「この時期の躍動感がおもしろいな」と思いたち、読み物・物語として編集してみました。

 

この物語「ある醸造元がはじまる風景   -FUJIYA NARRATIVE-」には、なるほどなるほど、不二家醤油が誕生した必然のような空気感や、今の時代に必要ではないかと思う学びなど思索できたところがあります。

思索のまとめとして、明治期の混沌とした、でもエネルギッシュな世相から今のコロナ時代にトレースできそうな考え方を3つ紹介します。

 

1.人と人との偶然のつながりが、文化形成の起点になる。

物語にはブリヂストン創業者石橋正二郎と洋画家坂本繁二郎の出会い、青木繁と坂本の友情、坂本と石橋の再会が登場します。もちろん実話です。

これらの偶然が重なり、久留米の石橋文化センターや日本を代表するブリヂストン美術館が多くの人に「楽しみと幸福」をもたらす文化施設となりました。

過去を振り返って解釈することで文化形成の足跡を辿ることができますが、その当時、その場面登場する人たちは、誰もそれが文化となることを想像していません。

そういう意味では、誰もが自分自身のナラティブを見つめ直すことで、自己を理解し、独自の文化となり得ると思いますし、さらに人と人との偶然の出会いこそが、文化形成の起点にほかならないと思います。

withコロナの中、オンラインツールによってデジタルコミュニケーションが活発になったことは良いこと。だとは思います。

でも偶然性、偶発性をどのようにそこに担保するか、非常に気になるところです。ある巨大なアルゴリズムによって操作された意図的な偶然性をただただ受け入れるほかないのでしょうか。

 

2.後世に残る偉業は、実はその当時では必然だった!?。

とはいえ、偉業を成し遂げた誰もが認める偉人の歴史は、必然であったようにも思えます。

坂本繁二郎は、幼いころから絵を描く事が好きで、暇さえあれば絵を描いていました。自分の家のふすま4枚に墨で絵を描き、真っ黒にしてしまった逸話が残っています。また、石橋正二郎は、若いころお金もないのに九州にはまだ1台も無かった自動車を購入したり、自社の製品を映画にして上映したり、普通では考えないことを実現する力がありました。

そう考えると、「何かに熱中できたり、誰も考えないようなことをやるチャレンジ精神」が必然的に後世に残る偉業を引き寄せたと言えるかもしれません。

まさに、不二家醤油が誕生した精神もこの時代の雰囲気をまとっているいるように思います。

 

3.イノベーション(経済)とアート(文化)を触媒する地を意図的に創るには。

ルーツを探ることは、未来に目を向けることだとも思います。

何が正しく、何が間違っているか誰にもわからない不確実で、複雑で、曖昧なこの時代。

自分のルーツであるひとつの「点」をきっかけに、未来にまたひとつ「点」を打つ。

そうすると、その人にしか描けない一本の線が見えてきます。だから、ルーツは必ず必要なものだと思うのです。

また、人と人が出会いをつなげる「場」も大切なものではないかと思います。

教育の場や、職場、遊びの場などある一定の枠を超えて、経済と文化が交わる場が必要な気がします。

例えば、カフェ?例えば、図書館?例えば、サロン?。経済主動との境界線にある「場」が必要なんだと思います。

 

 


ある醸造元がはじまる風景   -FUJIYA NARRATIVE-

《 混沌時代のイノベーターとアーティストの交差点「筑後」の地にて 》

 


東芝の創業、発明家「田中久重」

明治6年(1873年)博多港。

文明開化にわく明治政府は、急速に拡大する通信技術を西洋に追いつくため、ある技術者に目をつけました。

それが、当時すでに73歳と高齢になっていた田中久重。もう、完全なおじいちゃんです。

白羽の矢がたったおじい久重を東京によび、日本独自に通信事業を立ち上げようとしました。

久重は政府の要請に、「文明開化の中心地で自らの技術を日本に、世界に問える」と博多港から東京へと向かいます。

発明家「田中久重」

発明家「田中久重」からくり儀右衛門

 

久重と言えば、わずか9歳にして開かずの硯箱(すずりばこ)をつくった天才発明家。

ゼンマイ仕掛けのからくり人形づくりを最初に、和時計の最高傑作、蒸気機関、電話機までも開発した人物です。

「からくり儀右衛門」は人を喜ばせることに何よりも生甲斐を感じ、人々の必要としているもの、生活を豊かにするものを考え、そのアイディアを次々と形にしていった根っからのイノベーターでした。

JR久留米駅には定時になると、時計盤が回転し、儀右衛門人形が現れるからくり時計があります。

JR久留米駅のからくり時計

JR久留米駅のからくり時計

 

 

久留米時代の従業員と共に上京したおじい久重は、すぐさまヘンリ電信機をつくり上げました。

明治8年頃、東京銀座にの店舗兼工場を建てました。これが東芝の歴史のはじまりです。

明治14年(1881年)、満82歳でその生涯を閉じた久重のあとを二代目久重となる弟子の田中大吉が受け継ぎました。
大吉は明治15年(1882年)、東京・芝浦に「田中製造所(芝浦製作所)」を設立。久重の情熱と探究心のDNAはここにしっかり受け継がれました。

田中製作所(芝浦製作所)

田中製作所(芝浦製作所)

 

現在の姿「浜松町ビルディング(東芝ビルディング)」(2017年)

現在の姿「浜松町ビルディング(東芝ビルディング)」(2017年)

 

浜松町ビルディングからみたお台場・レインボーブリッジ方面(2017年)

浜松町ビルディングからみたお台場・レインボーブリッジ方面(2017年)

 

ちなみに2021年、「浜松町ビルディング(東芝ビルディング)」の建替で地上43階の超高層ツインタワーの建設に着手しました。

また時代が移り変わり、その風景も人の生活も変容してゆきます。

久重が思い描いた「人を喜ばせることに何よりも生甲斐を感じ、人々の必要としているもの、生活を豊かにするものを考える」未来に近づいているでしょうか。

浜松町ビルディング超高層ツインタワーの完成予想図

浜松町ビルディング超高層ツインタワーの完成予想図


日本が誇る洋画家「坂本繁二郎」誕生

田中制作所(芝浦製作所)が設立されたその年(1882年)に、また久留米で新しい光が誕生しました。

それが「馬の画家」と呼ばれた坂本繁二郎です。

少年期の坂本繁二郎

少年期の坂本繁二郎

 

生涯にわたって牛や馬、能面や月などの題材を多く描いた坂本繁二郎。

彼は特に私たち八女筑後に在する不二家醤油とゆかりの深い人物でもあります。

繁二郎が生まれたちょうどそのころ私たちの先代、川原為吉が筑後の地で醤油づくりをはじめました。

当初はいくつもの家族が協働総出でおこなう愚直な醤油づくりだったと言います。

不二家醤油のはじまり

不二家醤油のはじまり

 

10歳の頃、坂本は森三美という洋画家の画塾に通い、「神童」と呼ばれるほど上達します。

後には、久留米高等小学校で同級生だった青木繁も画塾に入りました。

その青木が「絵を勉強する」と言って1人上京したとき、坂本の心は揺れ動きました。

この頃、坂本家の暮らしは貧しく、万事をきりつめて暮らしていたのです。

細々とした生活の中で、好きな絵を描かせてくれる母に彼は無理を言えませんでした。ところが、家族が成人になるのを待ち望んでいた兄が病死します。

母1人子1人となった坂本は、家族を助けるため久留米高等小学校の代用教員を務めました。

そのころの生徒のひとりがブリヂストンの創業者石橋正二郎でした。

 

 

繁二郎は、大正10年(1921年)39歳のときにパリへ留学し、シャルル・ゲランに師事。

1924年に帰国し、そのまま家族の待つ郷里久留米市へ戻り、さらに1931年、不二家からさほど遠くない八女市へ転居しました。

パリの下宿と同じような天井まで窓のあるアトリエを自宅から少し離れた場所に建てました。

フランスで魅せられたその自然と同じ風景を求めてのことだったのかもしれません。

かつて印象派を生み育んだ明るい光と風に虜になった坂本は、この八女の地で、パリと同じような光をキャンパスに跡することに専念します。

現在の繁二郎のアトリエ跡(八女市 2021年)

現在の繁二郎のアトリエ跡(八女市 2021年)

 

繁二郎のアトリエ跡周辺。澄んだ空気が心地よい(八女市 2021年)

繁二郎のアトリエ跡周辺。澄んだ空気が心地よい(八女市 2021年)

 

老年期の坂本繁二郎(八女市在住の頃)

老年期の坂本繁二郎(八女市在住の頃)

 

 

 

その新しいアトリエで描かれたのが名作「放牧三馬」です。

3頭の馬が陽光に照らされて輝く体がそれぞれ正面、側面、背後からの姿に描き分けられています。

 

友人に馬の絵を注文されたのが最初のきっかけだったといいます。

この放牧三馬に描かれている中央の白馬。実は、この馬、不二家醤油の先代が保有していた白馬ではないかと思っています。

繁二郎が八女のアトリエに転居したちょうどそのころ、私たちの先代はアトリエの前の農道を白馬に乗って醤油を売り歩いていたのです。

八女と筑後を横断する矢部川、お茶畑を白馬に乗った先代がとおりました。

繁二郎は、フランスで魅せられた自然の光、風景をそこに見ながら、そして悠々と闊歩する白馬を見ながら、その情景をキャンパスにおこしていたのではないでしょうか。

坂本は没するまで数多くの馬を描きました。九州の豊かな自然の中で躍動する馬の姿に魅せられ、気に入る馬を求めて放牧場や馬市を訪ね回ったといいます。

 

坂本繁二郎《放牧三馬》(1932年)

坂本繁二郎《放牧三馬》(1932年)

 

白馬に乗る不二家3代目当主

白馬に乗る不二家3代目当主

 


もうひとりの天才青木繁との忘れがたき友情

青木繁と坂本繁二郎は、同じ年に久留米で生まれ、しかも久留米高等小学校でも同級という親しい関係にありました。

そしてふたりとも幼少の頃から絵を描くのが好きで、京都絵画専門学校で学んだ久留米唯一の洋画家・森三美の画塾にも通っていました。

青木は明治32年(1899年)満16歳の時に中学明善校の学業を半ばで放棄して単身上京、東京美術学校に入学すると、翌々年には坂本も上京し、本郷駒込追分町の下宿に、青木とともに同宿したといいます。この頃青木とその恋人福田たね、そして坂本らはよく一緒に旅行してはその土地の風景を描いています。

青木は、持病の肺結核が悪化して心身共に衰弱し、明治44年(1911年)28歳で早世しました。

短命だったこともあって残された作品の数は多くはなく、代表作『海の幸』は後世に伝えられるほど有名であり、いまでも多くの美術や日本史の教科書に掲載されています。

『海の幸』の中央、一人こちらを向いている人物のモデルは青木の恋人だった福田たねだとされています。

壮年期の青木繁

壮年期の青木繁

 

青木 繁《海の幸》重要文化財(1904年)

青木 繁《海の幸》重要文化財(1904年)

 


世界に誇るアイディアマン、ブリヂストン創業者「石橋正二郎」

石橋正二郎は、明治22年(1889年)に福岡県久留米市に生まれました。

正二郎の久留米高等小学校の図画教師は、兄をなくし生活に苦しむ坂本繁二郎が代用教員を務めていました。

石橋正二郎

石橋正二郎

 

明治39年(1906年)、17歳で久留米商業学校を卒業した正二郎は、兄の重太郎とともに足袋(たび)を仕立てる「志まや」の事業を父から引き継ぎました。

明治45年(1912年)、正二郎が23歳で初めて上京した際、日本自動車合資会社を訪れ、初めて自動車に試乗する機会を得ました。

このとき正二郎は自動車を「志まやたび」の宣伝・広告に利用することを思い付き、九州にはまだ1台も無かったスチュートベーカー1台を購入。

自動車を初めて見る九州の人々は「馬のない馬車が来たぞ!」と大変驚き、自動車による「志まやたび」の市場拡大政策は絶大な効果を収めたのです。
また、当時日本に到来した映画にも着目し、足袋の製造工程を映画化して劇映画とともに各地で無料公開しました。これも大変珍しがられ人気を呼びました。

第一次世界大戦が始まった大正3年(1914年)にブランド名を「志まや足袋」から「アサヒ足袋」へと変更。本を代表する足袋会社に成長しました。

正二郎は、大戦勃発による物価高騰を予見して、事前に生地、糸などの原料を大量に仕入れました。

先駆的なアイディアで事業を成長させます。

自家製の大看板を掲げた志まやたび本店

自家製の大看板を掲げた志まやたび本店

志まや製の足袋

志まや製の足袋

 

新規事業へのチェレンジ

九州で最初に自動車を走らせた正二郎は、自動車への関心が湧いてきます。

そのころ日本国内の自動車需要は、大部分の車がフォードやゼネラルモータースの車で、外国車が占めていました。

自分の手で新しい産業を起こしたいというフロンティアスピリッツが湧き上がった正二郎は、自動車タイヤ研究開発に着手。

多くの苦難を乗り越えて昭和5年(1930年)4月。ついに第1号の「ブリヂストンタイヤ」を開発。その翌年の1931年、正式にブリッヂストンタイヤ株式会社が発足しました。

これは、ちょうど繁二郎が「放牧三馬」を描いていた年にあたります。車のタイヤ開発生産のイノベーションと、描かれた馬の洋画のコントラストが切なさを感じさせます。

 

タイヤ第1号(1930年)

タイヤ第1号(1930年)

 

車のタイヤ誕生と馬の絵の対比(コントラスト)が切ない

車のタイヤ誕生と馬の絵の対比(コントラスト)が切ない

 

街頭での宣伝風景(1932年頃)

街頭での宣伝風景(1932年頃)

当時の展示会

当時の展示会

 

自動三輪車で醤油を配達していました不二家(1952年頃)

自動三輪車で醤油を配達していた不二家(1952年頃)

 

ブリヂストン美術館の誕生秘話

本格的に絵画収集を始めるきっかけとなったのは、正二郎の高等小学校時代の図画教師だった洋画家・坂本繁二郎との再会でした。

若くして死んだ同郷の画家青木繁の作品の散逸を惜しんだ坂本は、正二郎に青木の作品を集めて美術館をつくってほしいと語ったといいます。

その言葉に感じ入った正二郎は、青木を中心として日本近代洋画の収集を始め、コレクションを形成していきました。

昭和25年(1950年)初渡米した際、都心のビルにあったニューヨーク近代美術館に強い感銘を受けた正二郎。

そこで東京・京橋に建設中の本社ビル2階を急きょ美術館として、自らのコレクションを一般公開することを決意します。

昭和27年(1952年)年1月、ブリヂストン美術館は開館しました。

ブリヂストン美術館開館の日(1952年1月8日)

ブリヂストン美術館開館の日(1952年1月8日)

 

DNAを守り、新時代を切り拓く都市型美術館誕生

20201月、正二郎の想いとコレクションを引き継ぎ、さらなるアートの地平へと活動を拡げる美術館が「創造の体感」をコンセプトとして新たにアーティゾン美術館|ARTIZON MUSEUMが誕生しています。

アーティゾン美術館|ARTIZON MUSEUM(2020年)

アーティゾン美術館|ARTIZON MUSEUM(2020年)

アーティゾン美術館|ARTIZON MUSEUM(2020年)

アーティゾン美術館|ARTIZON MUSEUM(2020年)

 

「世の人々の楽しみと幸福の為に」

終戦後、久留米市は昭和20年の空襲で全市の多くが焼野原となりました。正二郎はこれが青少年の思想に及ぼす影響を心配し、「久留米を明るくしたい」と考え、文化センターの構想を練ります。そうして、自ら基本構想の図面を描きました。石橋文化センター開園当時(昭和31年)の施設には、石橋美術館や体育館、50m公認プール、野外音楽場などがありました。それは市民にとって、まさに「夢の贈り物」でした。


後年になって、石橋文化ホールと文化会館、日本庭園が加えられました。正二郎は郷里への思いをこう述べています。
「私は、愛郷心から私の会社の工場を永久に発展させたい念願であり、従って会社ばかり繁栄しても調和がとれないから、何とかして立派な久留米にしたい。(中略)清潔で整然とした秩序を保ち、教養の高い、豊かで住みよい、楽しい文化都市にしたいと願うものである」
石橋文化センターの正門石壁には、正二郎の筆跡(ひっせき)でこう刻まれています。
「世の人々の楽しみと幸福の為に」
この言葉は、働く人たちにも、世の中の人々にも楽しみを与えたいと願った正二郎の経営理念と人生観でした。そして、これからも市民が語り継ぐべき大切な「宝」となっています。

石橋文化ホール・文化会館を建設し久留米市に寄贈(1963年)

石橋文化ホール・文化会館を建設し久留米市に寄贈(1963年)

 

 

不二家の従業員の多くは、この石橋文化センターのプールや美術館、体育館を利用して成長しました。正二郎氏やブリヂストンに感謝。

久留米に住む住民は正二郎の愛郷心に感謝しながら「楽しみと幸福」を体感し、また次の世代へ、その心をつないでいく、そういう気持ちを抱くものとなっています。

市民の憩いの場となった石橋文化センター(1973年)

市民の憩いの場となった石橋文化センター(1973年)

文化センターで催物を楽しむ市民(1980年)

文化センターで催物を楽しむ市民(1980年)

 

 

 

※引用参考

東芝の歴史/TOSHIBA SPIRIT

https://toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/history/toshiba_history/index_j.htm

ブリヂストン物語

https://www.bridgestone.co.jp/corporate/history/story/index.html

世の人々の楽しみと幸福の為に

http://www.shojiro-kenshokai.jp/

久留米物語

https://welcome-kurume.com/knows/story/kurume_story01.html

 

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