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稲作はどこから来たのか ─ 筑後平野にひそむ神話と大地の記憶

2025.08.17
熊本県山鹿市チブサン古墳。縄文から弥生時代の北部九州の繁栄

写真は今から約1500年前に造られたとされる装飾古墳。チブサン古墳(熊本県山鹿市)。
全長60m程度の前方後円墳で、周囲からは人物埴輪の一部や、石人(石で人型を模した像)などが見つかっている

山と川の恵みから火の農業へ

私たちの祖先は、稲作が伝わる以前、山野を歩いて木の実や山菜を採り、川で魚を捕まえ、獣を追いかける──そんな採取経済で暮らしていました。そこに一大転換をもたらしたのが「火の利用」でした。草を焼き払い、灰を肥料にして稗や粟を育てる焼畑農業です。考古学的には縄文後期〜晩期(いまから5〜7000年前)にはすでに始まっていたとみられています。

 

「古事記」にも、その時代を象徴するような神話が残されています。伊邪那美命(イザナミノミコト)は火の神であるカグツチノミコト(火之迦具土神)を生んだときに陰部を焼かれて死んでしまった、とあります。これは物語としての表現であっても、火の誕生と死の結びつきを伝えているように見えます。火は破壊であると同時に、新しい生産の始まりでもあったのでしょう。

 

伊邪那美命(イザナミノミコト)

伊邪那美命(イザナミノミコト):火の神であるカグツチノミコト(火之迦具土神)を生んだときに陰部を焼かれて死んでしまった

 

穀物の“たね”をめぐる物語

さらにおもしろいのが「オオゲツヒメ神(大気津比売神)」の神話です。天照大神が食べ物を求めると、オオゲツヒメは鼻や口、尻からいろいろなものを出して調理しました。それを見た速須佐之男命(スサノオノミコト)は「なんと穢れたことを」と怒って彼女を殺してしまいます。すると死体から稲、小豆、麦、大豆、蚕などが生まれました。

神産巣日御祖命(カミムスヒノミコト)がそれらを採り、人々が栽培する「穀物の種」とした、と古事記は伝えています。
ここに現れているのは、作物を「種」として保存し、次の世代へつなぐという農耕の根本的な発想です。神話のかたちをとりながらも、稲作農耕に必要な認識の芽生えを感じさせます。

オホゲツヒメから生まれた農作物

オホゲツヒメから生まれた農作物。ヒメは鼻や口、尻からいろいろなものを出して調理した

 

神饌という“循環”の儀礼

日本各地の神社で行われる「神饌(しんせん)」の儀式も、こうした思想の延長にあるといえます。
その土地の米や魚を神に供え、また自らもいただく。食物を「天地の恵み」として神と共有する行為です。これは人間同士の共食ではなく、神と人とのあいだの共食。農耕社会における「循環の感覚」が日常のなかに根づいていたことがわかります。

日本各地の神社で行われる神饌の儀式

日本各地の神社で行われる神饌の儀式。神と人とのあいだの共食。

 

稲作の伝来と九州北部

では稲作そのものはいつ日本に伝わったのか。考古学的には縄文晩期(約2300年前)、九州北部に稲作がもたらされたとされます。福岡の「板付遺跡」や佐賀の「菜畑遺跡」からは水田跡や農具が発見されており、稲作発祥の地として知られています。

筑後地方は、筑後川・矢部川水系の豊かな扇状地と低地を抱え、水の調整がしやすい地形でした。稲作にきわめて適した土地であり、北部九州で始まった稲作は早い時期にこの地へと浸透したと考えられます。

 

筑後平野は海の底だった?

しかし、この肥沃な平野も、かつては海の底にありました。縄文海進と呼ばれる海面上昇期には、博多湾と有明海がつながり、筑紫平野や福岡平野は海に沈んでいたと、九州大学の調査も報じています。

地元の百姓が残した証言も同じことを裏付けます。川原喜代登氏の著書『筑後地方の稲作農業と農民』にはこうあります。

「農地基盤整備工事で掘った地下3〜4mには、有明海の潟と同じ地質があり、1m近いカキ殻がそのまま生き埋めになっていた。筑後川下流域が現在の姿になったのは、まだ2000年も経っていない。」

さらに昭和初期の道路工事では、多数の弥生土器や甕棺が出土しました。子どものころに「この辺りは昔、海だった」と聞かされていた記憶と、実際に掘り出された遺物とが重なり、筑後平野の大地の記憶を語っています。

北部九州の貝塚から出土したハイガイ化石を手がかりに古代の渚線を引いたところ博多湾と有明海はつながっていた。

北部九州の貝塚から出土したハイガイ化石を手がかりに古代の渚線を引いたところ博多湾と有明海はつながっていた。

 

川原喜代登氏の著書『筑後地方の稲作農業と農民』

川原喜代登氏の著書『筑後地方の稲作農業と農民』

渡来人のルートと目印

JAXAの海面シミュレーション(下図ではgifアニメーションで5秒ごとに切り替ります)で縄文期の九州北部を再現すると、渡来人が船で博多湾から有明海へ抜け、そのまま筑後地方にたどり着いたシナリオが見えてきます。途中、太宰府付近が最も狭くなる水路の要所であったことは、後の国防拠点にも通じます。

そして有明海から筑後を目指すときに目に入るランドマークは、耳納連山と高良大社、さらに雲仙普賢岳の山影だったことでしょう。

 

JAXAの海面上昇シミュレータ(https://data.earth.jaxa.jp/app/sea-level-rise/?h=0&lng=130.3648&lat=33.3786&zoom=9.86

 〜シミュレーションから読み取れること〜

 ・稲作を持ってきた渡来人は、九州北部(菜畑遺跡、板付遺跡)に船で到着した。

 ・博多湾と有明海がつながっていたので、そのまま船で筑後地方に来た。

 ・博多湾と有明海に行く途中で最も岸が狭くなる太宰府(前原遺跡)付近が渡航の要所(日本側は国防としいて)として考えられた。

 ・有明海に到着した渡来人に目印になった景色は、耳納連山(高良大社)、島原雲仙普賢岳。

 

縄文海進シミュレーション_広域

縄文海進シミュレーション_広域(gifアニメーションで5秒ごとに切り替ります) : 博多湾と有明海はつながっている

 

縄文海進シミュレーション_詳細

縄文海進シミュレーション_詳細(gifアニメーションで5秒ごとに切り替ります) : 有明海に到着した渡来人に目印になった景色は、耳納連山(高良大社)、島原雲仙普賢岳。

邪馬台国とのつながり

このような古代景観の想像は、邪馬台国論争にもつながります。魏志倭人伝に登場する「投馬国」を筑後地方に比定する説もあり、久留米の高良大社はその有力候補のひとつです。また、佐賀の吉野ヶ里遺跡には、弥生700年を通じて環壕集落が巨大化していった痕跡があり、クニの中心地だったことを示しています。

稲作の伝来と並行して議論されるのが「邪馬台国」の所在です。魏志倭人伝に登場する女王卑弥呼の国は、北九州か大和か、いまだに決着をみていません。

しかし筑後地方には、その舞台を想わせる痕跡が多く残ります。

  • 吉野ヶ里遺跡(佐賀):40haを超える環濠集落。卑弥呼の国のモデルとされる。
  • 高良大社(久留米):筑後一宮。魏志倭人伝の「投馬国」と比定する説あり。
  • 八女津媛神社(八女):女神信仰の地。「女帝国多し」と伝わる地域性。

稲作を基盤とした農耕社会が成立した筑後地方は、卑弥呼の時代、倭国の有力な舞台の一つであった可能性が高いのです。

さらに八女には「八女津媛」の伝承が残っています。『日本書紀』には景行天皇が巡行した際、水沼県主が「山中に八女津媛が住む」と奏上したとあり、女帝や巫女的存在を思わせます。魏志倭人伝に描かれる「女王国」との響き合いを感じずにはいられません。

八女津媛神社

八女津媛神社。
女帝や巫女的存在を思わせます。魏志倭人伝に描かれる「女王国」との響き合いを感じずにはいられません。

 

参考:邪馬台国 菊池郡山門説 -うてな遺跡-

熊本県菊池を邪馬台国と比定しつつ、筑後の上妻郡、下妻郡地区を投馬国として、魏志倭人伝の経路を推測している。わかりやすく筑後の卑弥呼説を想像させる好きな説でした。

https://note.com/airrium/n/nd751459c5131

 

 

一膳のご飯の重み

神話、考古学、地元の記録、地質学。それぞれの断片を重ねると、筑後平野の大地は「かつて海だったこと」「稲作が早く伝わったこと」「女王の伝承が残ること」を静かに物語っています。

いま私たちが食卓で口にする一膳のご飯も、こうした数千年の歴史と神話の積み重ねの上にある。そう思うと、ご飯の味わいはぐっと深くなるのではないでしょうか。

 

 

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