そもそも、なぜそんなことを考えるのか。
「私たちの挑戦すべき方向性はどっちだろう?」
これから先、お客様に応える新しい商品や継続的な事業をしてゆくための課題感がそこにはありました。
これが最初の問いの出発点です。
一般的なセオリーに従うと、マーケティングや事業ポートフォリオなどで考えてゆくのだと知りながら、
不二家だからこそできる、オリジナリティある挑戦すべき方向性を考えたい気持ちもあり、なかなか難しい問いを立ててしまいました。
今回は、その大きな問いの枠組みについて、概要を表明してみたいと思います。
ホームページには、私たちのコンセプトを、こう綴っています。
九州筑後の味をまもりながら、
新しい「美味しい」に挑戦します。長く続いていることや、ものの工程には大切な「本質」があります。
私たちが扱う醤油や味噌には、蔵人たちが心を込めた手しごとがあり、
先代から受け継いだ大切な工程があります。また、生命ある大豆や麹、微生物のおかげで、
豊かで味わいのある「食」を頂くことができるのです。
私たちは、この大切な「本質」をあなたと分かち合い、
生活の意識と心の体温を高めたいと考えています。

不二家コンセプト
このコンセプトだけでは語りきれていない大切な指針をもっておきたい。
ここでもっと「私たちの良さ」とは何か、を掘りさげる必要があると。
この問いに応えるべく、日々醤油やみそを造りながら、こんなことを考えています。
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1.私たちの「美味しい」の基準ってなんだろう?
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2.私たちの守りたい「本質」ってなんだろう?
まず、私たちの「美味しい」の基準とは何か?
食に携わるひとりとして、「美味しいーまずい」の尺度の解像度は高いほうだと思います。
不二家の現当主は、品評会など醤油のきき味(ききみ)の世界では、判別能力の長けた人物として一目おかれていました。
醤油だけでなく、きき酒の会でも優勝してしまうほどの舌を持っていました。
でも、味の解像度が高いことと、「美味しいーまずい」の判別能力はちょっと違いますね。
ひとそれぞれ「美味しい」と思うものが違うように。反対に「まずい」という方向も尺度もある。
あるいは「食」というワールドに限らず、ざまざまな世の中に相対するときに、自分自身の目が俯瞰してみれること。地図が拡張されてゆくことに、もっと寛大で、アクティブな姿勢が大切だとも思います。
自分の目や舌が肥えていれば、あらゆる「美しさ」や「美味しさ」をおもしろがれるし、多様な方向性も見出せる。
また、新しいものをつくることとは、世の中にまだ主流でないものの美意識を世に問うことでもあると思います。
例えば、柳宗悦の民藝運動も、本来なら見過ごされてきた名も無い創作者の日用品のなかに「用の美」という美意識に注目するという、美しさの尺度や解像度を上げていく運動だったと解釈できます。

用の美。柳宗悦が考案した美しさの拡張。
美味しいとは何か?美意識とは何か?
それは数をこなした人だから、たくさんプロットされた地図を持っているから、見えてくるものでもあります。
私たちは130年あまりの時(とき)を、和食に携わってきた組織文化があるのですから、このひとつぼ視点を世の中に提示する義務もあると思います。
というところまで概要でした。
次回、「美味しいとは何か?、美意識とは何か?」を掘りさげてみたいと思います。
さて、次に、私たちの守りたい「本質」とは何か?

不二家タグライン「美味しいを、もっと。THE ESSENTIAL BREWING」
私たちのタグラインは「美味しいを、もっと。THE ESSENTIAL BREWING」
つまりは、発酵の本質とはなんなんだろうか?と。
味噌、ぬか漬け、梅干し、お酒、などの発酵食は昔から親から子へと家族のなかで受け継がれて来たもの。
ところが、冷蔵庫や電子レンジ、悪意のない大量生産と消費によって、少しずつ私たちの暮らしから遠ざかり、いつしかハードルの高いものになってしまいました。
日ごろ醤油やみそをを醸造していて、ふと思うことがあります。
「これを作っているのは誰だ?」
醤油やみそづくりには「待つ」という工程が多々あります。適温にするために待ったり、麹を増殖させるために待ったり。
私たちは種麹を、より快適に、より住みやすくするために寝床を整えているようなもの。私たちが麹菌の生活の介助・補助をしているようなものなのです。
作り手の主(あるじ)は菌のほうにあって、補佐を人間がやっている。寄生しているのは人間のほうであり、命の営みを粛々とやっているのは麹菌のほう、と言っても良いかもしれません。
そういった命と命の相互作用である発酵食文化は、生の営みの知恵であり命を繋ぐもの。
つまり、これが命をいただくことへの感謝の気持ちと健やかな暮らしの源泉だったのかもしれません。

これを作っているのは誰だ?。作り手の主(あるじ)は菌のほうにあって、補佐を人間がやっている。

これを作っているのは誰だ?。1〜3年待って諸味がつくられる。
古いものに新しい価値を見出す (すでにある価値の再発見)
また、私たちの仕事の工程ひとつひとつは先代から受け継いだもの。
そのなかには、ちょっと信じらないほど古い100年以上の木桶を普通に使っていたり、今では民芸品として扱われている竹籠(しょうけ)などを使って仕事をしているのです。
この過去と今とのゆっくりとした時間の流れを感じて思うことがあります。

100年以上使っている木桶。

使い続けている室蓋。これで米麹をつくる。

不二家に近い古い白壁が並ぶ八女の街並み。

不二家に近い柳川藩主立花家の邸宅「御花」
大量生産の時代のなかで、ひとはみな仕事をして生計を立てています。
企業で働くひとは、会社の歯車とか社畜とか表現されるほど、仕事=労働と考えているひとも多いかもしれません。
でも、不二家の蔵の活動は、「労働」ではなく「仕事」。もっと言うなら「手仕事」であると思います。
つまり、「ものをつくる」という行為における本来的な仕事観が、ここにあるのかもしれないと思います。
「スキルアップを重視して自己成長しながら働きたい」、「社会の一員として貢献できる存在になりたい」など良くも悪くも会社員の多くがもつ現代の仕事観とは別次元の、
野心的ではないけれども、もっと自然体の生きる必然的な仕事観。(ちょっと言葉足らずだ。。。)
また、仕事のなかでは当然のように「古き良きものを大切にする」価値観も根づいています。
これは例えば、新商品を乱立させたり、マーケティングによる無理な顧客開拓も行なわない、といった私たちの行動原理にもなっている。
現代は、より新しいものに価値がおかれ、特段新しいものを欲していないひとさえ新しいものを購入して消費するサイクルが当たり前で、逃れようのない常識となっている。
新商品を開発して、消費を喚起し、利潤を得るという行動が良い事業のあり方だとされている。
果たして「古き良きものを大切にしてきた」不二家も、このサイクルにのっかるしかないのか?
さらに、
現代、新しく発売される製品や店頭に並んだ商品には、基本的にはそのモノには名前があり、製品カテゴリがあり、使われるべき用途があり、スペックが明記されています。
今の時代はそれだけでは足りず、生産地の背景や作り手の哲学までもが語られなければ、消費者の心には響かない。
私たちもその経済システムにのっかっているわけではあるのだけれど、そこで少し立ち止まって思うことがあります。
例えば、古道具や骨董には、そういった明示的なものはほとんどない。

誰かの手で大切にされてきた古道具たち。

誰かの手で大切にされてきた古道具たち。

誰かの手で大切にされてきた古道具たち。

誰かの手で大切にされてきた古道具たち。
使われていた当時には、きちんとした用途がありストーリーを持っていたが、時代とともに忘れ去られ、風化してしまっただけのことではあるのだけれど、今なお存在する古道具たちは、モノとして人を惹きつけ魅力を感じられるものだけが、捨てられずに今も存在している。
そんなものたちは、いまこの新しいものを追い求めるこの時代だからこそ、暮らしを彩り、暮らしに寄り添うことができる意味をもたらしていると思うのです。
不二家のものづくりも、古道具や骨董のように筑後の日常に根づいてきた歴史があります。
古道具や骨董のように、時代を問わず、捨てられずに、意味を変えながら、暮らしに寄り添っていけるものづくりをしていきたいと思うのです。
長くなりましたが、「私たちがどうありたいか」、さらには「私たちが存在する意義は何か」をよく考えて仕事をし、次に引き継ぐ。
これを読んだ方が、どんな仕事をしているか想像もできませんが、どんな仕事をするにもひとが活動するための動機を、「ポジティブに捉えられる視点として解釈」していただければ幸いです。
またいつか、「私たちの守りたい本質とは何か?」を掘りさげて書いてみたいと思います。