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生命は、左を選んだ。 ~醤油の旨みにも、利き手がある~

2026.08.25
菌、植物、動物。両利きと聞き手を考えるとおもしろい。

生きものは、利き手を持っている。 選んだ理由は、まだ誰も知らない。

── 二十年前の書評の余白から

 

一、両利き

自然界の力は、右にも左にも肩入れしません。素粒子のふるまいも、電磁気の作用も、鏡に映しても崩れません。鏡に映した自分の顔は、右と左が入れかわるだけで、別人には見えません。それでも物理法則は、そのどちらかを選んだりしません。コインを投げれば、五分と五分。自然の力には、それとおなじ気前のよさがあります。

物理学ではこれを、パリティ保存の法則と呼びます。

自然という、両利き。

けれど、地球上の生きものだけが、片方の手しか使いません。

 

二、利き手

生きものの体のなかにあるアミノ酸は、ほとんどが左型です。

試験管のなかで化合物をつくれば、右型と左型は、ほぼ同じ数だけできます。好みなどありません。生きものの内側だけが、違います。人の九割ほどは、右利きだといいます。けれど体の中の分子は、その逆の手で書かれています。

理由は、まだ誰も知らない、その利き手。

地球の自転のせいだという説があります。地磁気の向きのせいだという説もあります。ただの偶然だという説さえあります。どちらにせよ、一度その手で書きはじめたら、生命はもう、利き手を変えません。

三十数億年、ずっと同じ、その手。

 

三、鏡

右型と左型は、同じ原子、同じ重さ、同じ角度でできています。鏡に映したように、形は完全に対応します。

けれど、味が違います。匂いが違います。

スペアミントと、キャラウェイは同じ分子の、右型と左型。

スペアミントと、キャラウェイは同じ分子の、右型と左型。

 

スペアミントと、キャラウェイ。まったく別の香りに思えるこの二つも、じつは同じ分子の、右型と左型。

これを見つけたのは、パスツールでした。

右の靴を左の足に履かせても、形は同じなのに、しっくりきません。分子にも、同じことが起きます。舌という靴に、右の分子と左の分子は、同じようにはおさまりません。

では、蔵の旨みは、どちらの手でできているのでしょう。

 

四、傾き

利き手は、体の一部だけに出ます。

キリギリスの羽の重なりは、左右で違います。フクロウの左右の耳は、高さが違います。クジラの頭蓋骨も、ロブスターの鋏も、左右非対称です。体の大部分は対称のまま、ある一点だけが、片方に傾いています。

両手を持ちながら、いつも使うのは、片方だけ。

生きものは、全部を非対称にはしません。必要なところだけ、そっと利き手にします。

キリギリスの羽の重なり、フクロウの左右の耳、クジラの頭蓋骨、ロブスターの鋏も、左右非対称

キリギリスの羽の重なり、フクロウの左右の耳、クジラの頭蓋骨、ロブスターの鋏も、左右非対称

 

五、旨み

醤油と味噌の旨みは、アミノ酸でできています。調味の基本を、味礎といいます。

そのアミノ酸は、左型だけしか、生きものの中にありません。もし鏡の向こうの、右型だけでできた大豆と麹があったなら、できあがる旨みは、いまとは違う味になります。同じ原料、同じ手間、同じ時間をかけても。

麹菌が大豆と小麦をほどき、酵母が時間をかけて色と香りをつくります。二年、三年と桶の中で待つあいだ、変わらないのは、その片方の手だけ。

この蔵で百三十年、仕込み続けてきた旨みは、たった一方の手に依っています。

両利きを選んでいたら、なかった、この味。

 

六、待つ手

移動する生きものの体は、左右対称です。

人も、魚も、犬も、獲物を追うために、前と後ろ、右と左を持ちます。まっすぐ進み、向きを変える必要があるからです。

 

けれど、獲物を待つものは、そうではありません。イソギンチャクは体の中心から放射状にひろがっていて、どちらから来る餌にも、同じように応えられます。

 

麹も、酵母も、待つ側。

桶のなかで動かず、ただ、もろみが変わっていくのを待ちます。

外は、変わっていきます。気温も、日射しも、蔵の外の時間は、絶えず動きます。桶の中だけが、動かない場所として残ります。

待つものが、動くもののための利き手を、書いています。

獲物を待つものは、放射状に広がる。麹菌も同じ待つ側。

獲物を待つものは、放射状に広がる。麹菌も同じ待つ側。

 

 

七、一手

杉の桶は、丸いのです。上から見れば、どこを切っても同じ形になります。器は、両利きです。

そのなかで毎日、表面を変えているもろみは、二度と同じ顔を見せません。

器は両利き、もろみは片手。

生きものは、利き手を使って、工夫して、生きてゆきます。 百三十年、変えてこなかった、この一手。

器は両利き、もろみは片手。

器は両利き、もろみは片手。

 

 

 

参考

  • マーティン・ガードナー『新版 自然界における左と右』
  • 黒田玲子『生命世界の非対称性―自然はなぜアンバランスが好きか』(中公新書)
  • 『和食ことわざ辞典』(4)
  • マックス・ベネット『知性の未来脳はいかに進化し、AIは何を変えるのか』
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