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常懷慈慶(じょうかいじけい)〜 一つの箪笥に眠っていた三代の記憶。それは、不二家の理念

2026.06.24
常懷慈慶。古い箪笥を開けると、思いがけないものが重なって出てきました。

ある日、古い箪笥を開けると、思いがけないものが重なって出てきました。

先代が残した数々の思い出の品。そして、もう一枚——一幅の書。

「常懷慈慶」

四文字を声に出してみます。常に、慈しみと、慶びを、懐に。

最初は、これも祖父・文雄が書いたものだと思っていました。けれど、文字の感じや時代の空気を辿るうちに、もっと遡るのではないか、という気がしてきました。

字をさかのぼる

不二家の創業は明治二十九年(1896年)。創業者・為吉のあと、その子・辰市は明治四十年(1907年)に八女福島農業学校を卒業しています。蔵を起こした人か、それを継いだ人か——どちらかが、この四文字を選んだのでしょう。

いずれにしても、明治から大正にかけての時代の空気が背景にあります。

日清戦争、日露戦争を経て日本が大国への道を歩むなか、教育勅語(1890年)に基づく忠孝・敬愛・博愛の徳育が説かれ、一方で文明開化と富国強兵が急速に進み、地方や庶民の暮らしは厳しいままでした。

蔵を起こす、あるいは継ごうとする人間が、そういう時代に自分自身へ向けて書いた言葉だとすれば——

進歩の裏側で人の心の温かさが失われていないか、という静かな警鐘だったのかもしれません。

数ある徳目のなかでも「慈」と「慶」——いつくしみと、他者の幸せを願う心が選ばれたのは、教えを説くためではなく、自分に課すためだったのでしょう。

戦争を重ねる時代だからこそ、他者とともに生きることを願う、ひとつの祈りだったとも読めます。

そう考えると、ひとつの蔵がここまで続いてきた理由の、根のようなものが見えてくる気がします。

それでも文雄は、この四文字とともにあった

父・辰市の卒業証書(明治四十年、八女郡立福嶋農業学校)

父・辰市の卒業証書(明治四十年、八女郡立福嶋農業学校)

 

この書は、文雄ひとりの持ち物ではありませんでした。同じ箪笥には、父・辰市の卒業証書(明治四十年、八女郡立福嶋農業学校)や青年会の褒賞(草鞋の三等賞、大正四年)と並んで、文雄自身の持ち物——近衛騎兵隊・第二中隊での「作文清書」のノート、近衛騎兵聯隊の歴史をまとめた教本、馬にまたがった写真、近衛兵の旗——が一緒にしまわれていたのです。

文雄は若い頃、近衛兵として東京へ上がり、天皇陛下に仕えました。

一方、父・辰市は二十七歳でスペイン風邪に倒れ、早くに世を去っています。

父の卒業証書や褒賞を、自分自身の誇らしい記憶と並べてしまっていたのは、父との時間があまりに短かったからかもしれません。

近衛騎兵隊・第二中隊での「作文清書」のノート

近衛騎兵隊・第二中隊での「作文清書」のノート

 

「作文清書」のノート。整然と綺麗な字で書かれている。

「作文清書」のノート。整然と綺麗な字で書かれている。

 

近衛騎兵聯隊の歴史をまとめた教本

近衛騎兵聯隊の歴史をまとめた教本。びっしり赤線が引かれている。

それから何十年か後、同じ文雄が、志布志の地図を持つことになります。

志布志湾は、太平洋戦争末期、連合軍による九州上陸作戦——オリンピック作戦の最初の上陸地点として想定されていた場所です。

陸軍第八十六師団が地下壕を含む防御陣地を築き、決行予定は昭和20年11月1日。実現していれば沖縄戦をはるかに上回る犠牲が出たとも言われますが、8月15日、終戦の知らせが先に届きました。

かつて東京で天皇のために馬に乗った青年が、歳月を経て、今度は郷土を守るために、もう一度馬とともにある土地へ向かう。

明日が見えない日々のなかで、文雄は父の生きた証と、自分自身の歩んできた道を、同じ箪笥に置いていたのかもしれません。

鹿児島県志布志の地図。第二次世界大戦中ここに文雄が駐屯した。

鹿児島県志布志の地図。第二次世界大戦中ここに文雄が駐屯した。

 

塩と竹細工と、一本の汽車

戦後しばらく、塩は高価で、手に入りにくいものでした。

戦が終わり、文雄は蔵を継ぎました。継いだ直後、醤油づくりに欠かせない塩が、手に入りません。当時、塩は非常に高価で、貴重なものでした。

そこで文雄は、自ら鹿児島へ向かいます。あの、馬とともに過ごした、志布志へ。

土地の縁を頼りに塩をつくり、汽車で持ち帰りました。

ただ持ち帰るだけでは終わりません。行きの汽車には、筑後のあたりで盛んにつくられていたお茶や竹の傘、竹編みの民芸品、和紙を積み込み、鹿児島で売りました。塩を手に入れるための旅が、もう一つの商いになっていたのです。

戦場で見た土地の縁を、生きるための知恵に変える。商売人としての才も、ここに見えてきます。

筑後でつくられていた八女茶や竹の傘、竹編みの民芸品、和紙を積み込み、鹿児島で売りました。そして、塩をつくり汽車で持ち帰りました

筑後でつくられていた八女茶や竹の傘、竹編みの民芸品、和紙を積み込み、鹿児島で売りました。そして、塩をつくり汽車で持ち帰りました

 

その頃の筑後・八女にあった製茶園の様子。筑後は、和傘、お茶、麦、米の産業が勃興した

その頃の筑後・八女にあった製茶園の様子。筑後は、和傘、お茶、麦、米の産業が勃興した

 

 

人を喜ばせ、ともに栄える仕組みを考える

文雄の商才は、もう一つ、大きな形になって表れます。

それまで、蔵が農家に醤油を売るときは、掛け売り——信用取引が当たり前でした。代金は約束のうえで、なかなか現金にはなりません。

文雄はこれを、麦との交換に変えました。醤油を、現金ではなく麦と引き換えに渡す。受け取った麦は、農協に売って現金化する。農家にとっては、収穫した麦で支払えるという安心があり、蔵にとっては、確実に物が動く仕組みになりました。

この仕組みに変えてから、お客は一気に増えたといいます。

ないものを、別のものに換えて道をひらく。塩を求めて鹿児島へ渡ったときと、根は同じ。

慈しみだけでなく、慶び——人を喜ばせ、ともに栄える仕組みを考える力。常懷慈慶という四文字は、文雄のなかで、そういう形にもなっていたのかもしれません。

「あのお客さんに、恥ずかしいものは出せない」「ご先祖さまに顔向けできない仕事はしない」。

「あのお客さんに、恥ずかしいものは出せない」「ご先祖さまに顔向けできない仕事はしない」。

四文字は、今も蔵にある

常懷慈慶。

明治の世に、誰かがこの四文字を選んだ。

昭和の戦火のなかで、その言葉を、誰かが手元から離さなかった。

そして令和の今も、同じ蔵で醤油と味噌が醸されています。

私たちは今、自分たちのものづくりを「鉄の檻ではなく、木の桶で。管理するのではなく、ともに生きる。」という言葉で語っています。

急がず、手をかけて待つ。発酵と同じように、内側からゆっくり変わっていく。

そして、「顔向けできない仕事はしない」。

これは、ただの今どきの言葉ではなかったのだと思います。

社会が大きく変わるたびに、人は便利さや速さに流されがちです。

ご先代がこの四文字を選んだのは、たぶん、その流れに対する、静かな抵抗だったのでしょう。

やさしさや、他者の幸せを喜ぶ心は、放っておくと簡単に消えてしまう。

だからこそ「常に」——一度だけでなく、日々の生き方のなかに、根づかせなければならない。

慈しみとは、ともに生きること。慶びとは、自分だけでなく、他者の幸せをも喜ぶこと。

経済が成長し、暮らしが便利になっていく時代のなかで、それでも心の豊かさを手放さない、という意思。それは、私たちが今も「発酵で、よかあたりまえをつくる。」と言うときの、根っこにある意思と、たぶん同じものです。

「発酵で、よかあたりまえをつくる。」

一つの箪笥に重なっていた三代の記憶——そのいちばん奥に、ずっとこの四文字があったのかもしれません。

私たちが今も「発酵で、よかあたりまえをつくる。」と言うときの、根っこにある意思と、たぶん同じもの

私たちが今も「発酵で、よかあたりまえをつくる。」と言うときの、根っこにある意思と、たぶん同じもの、それが「常懷慈慶」。

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