太陽を、ゆっくりあける。
~植物と動物のあいだから見えるもの~
有機物の循環のなかで人間は生きている。植物と動物のあいだ。
微生物は分解するんだけど、植物→微生物→動物でもあり、動物→微生物→植物でもある。── 手もとの覚え書きから
一、器
有機物、という言葉があります。理科の授業で習ったきりの言葉です。
あらためて考えると、炭素を骨組みにした物質のこと。それだけのことです。けれどこの言葉には、古い思い込みの化石が埋まっています。かつて有機物は、生きものだけがつくれる特別な物質だとされていました。そこには生命の力が宿っている、と。その壁は、実験室であっけなく崩れます。生きていない材料から、生きものの物質がつくれてしまったのです。
つまり、境目はなかった。
炭素には、手が四本あります。四方向に結べて、炭素どうしでいくらでも鎖になる。輪になる。おもしろいのは、その結びかたの強さです。ほどけないほど強くはない。かといって、すぐ崩れるほど弱くもない。
保てるけれど、ほどける。
この中途半端さが生きるということの正体だと、ずっと思っていました。けれど、たぶんそれは半分です。炭素は、正体ではありません。炭素は、器です。
では、中身は。
二、散らかり
以前この読み物で、掃除とエントロピーの話を書きました。片づけた部屋も、放っておけば散らかっていく。あれに抗うのが生きることなのかもしれない、と。
その続きが、思わぬところから来ました。
ある農家が、こんなふうに言っていたのです。宇宙の誕生も、生命の誕生も、起源はエネルギーである。だとすれば、世界に目的があるとすれば、それはエネルギーを拡散することだ、と。
たしかに、熱は冷たいほうへ流れます。インクは水のなかで広がります。世界はいつでも、ばらけるほうへ、うすまるほうへ、均されるほうへ動いていく。
だとすると、生きものは奇妙です。
からだは散らかりません。細胞は形を保ち、秩序をつくり、複雑になっていく。世界の流れに逆らっているように見えます。
けれど、逆らってはいないのです。生きものは、自分のなかに秩序をつくりながら、そのぶん外へ、もっと大量の熱を捨てています。呼吸し、発熱し、排泄する。差し引きすれば、生きものは拡散を加速させている。
秩序をつくることが、拡散を早める。
抗っているつもりで、早めていた。この矛盾のような一文が、たぶん生命のいちばん深いところにあります。
三、缶詰
植物は、光を浴びて、空気から炭素を編みます。
このとき起きているのは、拡散したがっているエネルギーを、炭素という器のなかに、一時的に閉じこめること。ぐっとこらえさせているのです。
同じ農家が、化石燃料のことを「太陽光の缶詰」と呼んでいました。この言い方はいい。石炭も石油も、何億年も前の太陽が、植物のからだに詰められて、そのまま地下で忘れられていたもの。固いままなら石炭、溶けていれば石油、飛んでいれば天然ガス。中身はどれも、同じ光です。
けれど、缶詰なのは化石燃料だけではありません。
米も、缶詰。大豆も、缶詰。今朝食べたパンも、机の上のこの一杯も。ぜんぶ、太陽が炭素の器に詰められたものです。
そして人間は、動物ですから、自分では詰められません。空気から炭素を編むことができない。生きているあいだじゅう、他人の詰めた缶をあけて、中身を借りて、熱に変えて、捨てている。
からだは、借りものでできている。
四、あけかた
そう考えると、いろんなものの見え方が変わってきます。
農耕とは、缶詰をつくる技術でした。土地を耕し、水を引き、待って、太陽を炭素に詰めさせる。人間は詰められないから、詰められるものに詰めさせて、それを受け取ってきた。
では、発酵とは何でしょうか。
発酵は、缶詰のあけかたの技術です。
麹が大豆をほどきます。閉じこめられていたものを、ゆるめていく。タンパク質をアミノ酸に、でんぷんを糖に。大きな器を、小さな器に分けていく。旨味とは、要するに、ほどけかけた器のことです。
火にくべれば、缶は一瞬であきます。中身は熱になって、逃げていく。それでおしまい。
発酵は、そうしません。ゆっくりあける。あけながら、別の器に詰め直す。もとの大豆にはなかった香りが立ち、旨味がのこり、腐らないからだになる。醤油は、二年でも三年でも、そこに在りつづけます。
拡散したがるものを、押しとどめるのではなく、遅らせながら通す。

五、速度
いま人間がやっていることの多くは、逆のことです。
数億年かけて詰められた缶を、数百年であけている。石油も石炭も、あければ一瞬で熱になり、大気にひろがっていく。世界の望みどおり、猛烈な速さで拡散している。
長いあいだ、この星に届くエネルギーは、その日その日に降ってくる太陽光だけでした。植物が受け取れる分だけ、動物が食べられる分だけ。一日の予算が、決まっていたのです。掘るという発明は、その予算の外から持ってくることでした。過去の太陽を、いまここへ。
あれも発酵と同じ「あける」なのに、速度だけがちがう。
そして速度のちがいは、たぶん、質のちがいです。
早くあければ、熱しか出ません。ゆっくりあければ、味が出る。時間をかけたぶんだけ、器は複雑になり、香りが生まれ、次の生きものが棲めるようになる。川に淵があるから、魚が棲む。文化とは、エネルギーの流れにできた淀みのことなのかもしれません。
六、同類
ところで、微生物のことを分解者と呼びます。
けれど、植物から微生物へ、微生物から動物へ。動物から微生物へ、微生物から植物へ。矢印は、どちらにも向くのです。分解と組み立ては、同じひとつの動作の、表と裏でしかありません。

江戸の日本は、人の出したものを土に返していました。下肥といいます。汚いから捨てるのではなく、足りないから返す。植物のからだは、ほとんどが炭素と水素と酸素でできていて、残りのわずかな部分に窒素がいる。太陽と水はいくらでも降ってきますが、窒素だけは、育てるたびに土から減ります。だから、返した。
食べて、出して、返す。
これは、輪です。そしてその輪の結び目に、微生物がいます。分解者というより、詰め替える者系。人と土のあいだで、矢印をつなぎ直している者たち。
生産者。消費者。分解者。この三つの名札は、人間が経済のことばを自然に貼りつけたもの。じっさいにあるのは、ひとつのエネルギーが炭素の器を渡り歩きながら、少しずつ薄まっていく流れだけ。
だとすれば、植物も、動物も、微生物も、私たちも。
同類、ということになります。
七、預かる
醤油の一滴を、さかのぼってみます。
そのエネルギーは、去年の太陽でした。大豆が缶に詰めた。麹がゆっくりあけた。時間が別の器に詰め直した。そして今、料理のうえに落ちて、だれかのからだになり、いつか熱になって、宇宙へ還っていく。
前借りではありません。地面を掘ってもいません。いま降っている太陽の範囲で、つじつまの合っている味です。
私たちは、その途中に立っています。
つくっているのではない。せき止めているのでもない。ただ、通り過ぎるものを、少しのあいだ預かって、いちばんいい形にして、次へ渡している。明治二十九年から、この土地で、そればかりをしてきました。
急いであければ、熱になって消えるだけ。
ゆっくりあければ、味になる。
発酵の、根っこに。

