掃除とエントロピー、そして心の「散らかり」
~日常の風景から見えてくること~
私たちの毎日は、なんだか「散らかり」との戦いのような気がしませんか。
例えば、洗濯物。毎日洗濯機は回しても、畳んでしまう手間を省くと、あっという間に部屋の一角に山ができてしまいます。
きれいに片付けたはずのデスクや部屋も、しばらくすれば書類やペンでごちゃごちゃになってしまう。

あっという間に部屋の一角に山ができてしまう洗濯物

片付けたはずのデスクや部屋
生きると散らかる。もがくのが、生きること
そう、「生きると散らかるのだな」と、ため息をつきたくなるような日常で。
この物理的な「散らかり」は、少し難しい話になりますが、物理学の「エントロピー増大の法則」を身近に感じさせる現象と言えるかもしれません。
エントロピーとは、時間の経過とともに物事が無秩序な状態に向かう傾向のこと。
私たちの部屋が放っておくと散らかっていくのは、まさにこの無秩序さが増大する自然な流れの一例です。
ある方の言葉を借りるなら、「このとっ散らかりをどうにかするためにもがくのが、生きるということなのかもしれない」、
それはつまり「熱力学的にいえばエントロピーの増大ってやつだ、あれに対抗するのが生きるということだ」と言えるのかもしれませんね。

「熱力学的にいえばエントロピーの増大ってやつ
学校の掃除ってなぜやるの?
さて、ここで少し視点を変えてみましょう。
学校での掃除を思い出してみてください。なぜ、私たちは学校で掃除をする習慣があるのでしょう?その理由の一つに、「チューラパンタカみたいになって欲しいから」という考え方があります。
チューラパンタカは、昔々お釈迦様の弟子でしたが、非常に物覚えが悪かったそうです。
他のお弟子さんからバカにされ、仏道をあきらめかけた彼に、お釈迦様は「塵を払い、垢を除かん。」と唱えながらお寺を掃除するように教えました。

釈迦様の弟子、チューラパンタカ(イメージ)
彼は言われた通り、毎日ひたすら掃除に励みました。
三年が経ち、ある出来事をきっかけに、チューラパンタカはハッと気づきます。毎日掃除しても塵や垢は全くなくならない。「そうか!これは心の塵、心の垢と同じなんだ!だから毎日心を磨き続けなくてはならないんだ!」と。この気づきから、彼は偉いお坊さんになったとされています。そして、この教えが後の寺子屋や現在の学校の掃除へと引き継がれていったと言われているのです(ただし、現在の学校掃除は教育目的が主とされています)。
ここで、物理的な空間の「散らかり」と、チューラパンタカが気づいた「心の塵、心の垢」という「散らかり」を結びつけて考えてみましょう。
私たちの部屋や物理的な空間は、エネルギーを使わないと放っておけば無秩序な状態(エントロピーが高い状態)に向かいます。
それと同じように、私たちの心もまた、放っておけば「塵」や「垢」が溜まり、気持ちが「乱れて」いく性質を持っているのかもしれません。
五味太郎さんが「『心』ってなんか乱れている感じがする漢字ですよね、バラバラだからいい」とおっしゃったように、心には多様で無秩序な側面もある一方で、放っておくとネガティブな方向へ「汚れて」いく側面もあるのです。
「心は乱れるもの、だから、常に正そうとする」 という考え方は、その性質を示していると言えるでしょう。
こう考えると、日常の「掃除」という行為は、非常に示唆深いものに見えてきます。
物理的な掃除は、散らかった空間に一時的な秩序をもたらし、物理的なエントロピー増大という自然な流れに、私たち人間が意図的に「抗う」営みです。
そして、チューラパンタカの物語が伝えるように、掃除を通して「心を磨く」ことは、心に溜まる「塵や垢」(内面の無秩序)に日々気づき、それを払い、内面の秩序を保とうとする営みです。
つまり、私たちの日常の掃除は、単に物理的な環境をきれいに保つだけでなく、物理的な無秩序(エントロピー増大)に対抗する日々の小さな戦いであり、同時に、心の中の無秩序(心の塵や垢、乱れ)と向き合い、それを整えようとする内面の営みでもあるのです。
物理的な「散らかり」と、内面的な「散らかり」。その両方と日々向き合い、「正そうとする」プロセスこそが、「生きるということ」なのかもしれません。
私たちの日常でも。
私たち不二家は、毎週全員で会社の掃除の時間を設けています。
社長も従業員も関係なく、トイレ掃除や倉庫、事務所、蔵の掃除をみんな一斉に行います。終わったあとはなにか清々しいものが残りますね。
そして、その地道な繰り返しの中に、私たちの成長や気づきがあるとも思います。